美智子上皇后は義弟の姉、テレビプロデューサー「大原れいこ」の華麗なる交流(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

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Kejar Tayang |

クイーンズイングリッシュ

「お家柄」という言葉が忘れ去られつつある中で、「お嬢さま」もまた消えゆく存在なのかもしれない。もっとも、今年4月27日に84歳で亡くなったテレビプロデューサーの大原れいこさんは間違いなくお嬢さまの系譜に属する人物だった。世が世なら妃殿下になっていたかもしれない……とされるその華麗なる交流について、文筆家の延江浩がひもとく。  ***

 日本経済新聞に、こんな訃報が出たのが気になっていた。 《大原れいこさん(おおはら・れいこ=テレビプロデューサー、本名犬養麗子〈いぬかい・れいこ〉)4月27日、膠芽腫(こうがしゅ)で死去、84歳。(略)祖父は大原美術館(岡山県倉敷市)を設立した実業家の故大原孫三郎さん、父は実業家の故大原総一郎さん、夫は元共同通信社社長の故犬養康彦さん。  63年にTBSに入社し、71年テレビマンユニオンに参加。指揮者の小澤征爾さんの数々のドキュメンタリーや「オーケストラがやって来た」「五嶋龍のオデッセイ」などの音楽番組を制作した》  大原家の出でありながら、テレビ黎明から黄金期を担った「大原れいこ」……本名は「麗子」。誰もが知る女優と同姓同名である。彼女が関わったのがテレビマンユニオンと知り、私の所属する「放送人の会」会長であり、テレビマンユニオン創立者の1人、今野勉さんに連絡をとった。 「だったら、坂元良江さんだね。大原さんと2人でたくさん番組を手がけていたから」  新型コロナ禍ゆえ、当初はリモート取材を考えたが、「そちらに伺いますよ。昔、何度か通ったから」と坂元は電話の向こうで言った。「クラシック特番『世界のコンサートホールから』という番組。もう何十年も前です。うちの萩元(晴彦)と作らせてもらいました」  僕の勤務するTOKYO FMは、今年開局50周年を迎えた。以前はクラシックプログラムが多くあった。テープ室のアーカイブリストには小澤征爾さんが指揮するボストン響衛星生中継の音源もある。僕がAD(アシスタント・ディレクター)だった頃、局の玄関で萩元晴彦さんや作曲家の武満徹さんを見かけたことを思い出した。ただし、当時の社員ディレクターはとうに退職、局にはいない。  よく通る声に、まっすぐ伸びた背筋と深い眼差し。コットンパンツに麻のジャケットはいかにもテレビウーマン風の坂元良江だった。  1938年に東京に生まれ、早稲田大を出てTBSに入社、70年のテレビマンユニオン創立以降、プロデューサーとしてNHK「小田実 遺す言葉」「課外授業ようこそ先輩」といったドキュメンタリーの制作に携わってきた。作家・小田実、哲学者・鶴見俊輔、昨年アフガニスタンで武装組織に銃撃された「ペシャワール会」現地代表の医師、中村哲を追った番組も。  坂元は、まず自分がこの世界へ入った時代を語り始めた。 「1960年の秋に社名が『ラジオ東京』で、テレビは『ラジオ東京テレビ』、翌61年4月に私が入社した時点では『TBS東京放送』になっていました。「女性の公募はアナウンサーしかなく、アナウンサーとしての入社です。開局の頃は教師や編集者、そんな人たちが入っていたくらい。一般職の女子社員の公募は86年の男女雇用機会均等法後まで待たなければならなかった」  正確な年次が次々に出てくる。アジアで初めて開催される東京オリンピックを翌年に控えた1963年、3人の女性が中途採用される。公募ではなく、英語が担当であることがマストの条件だった。  まず1人がカリフォルニア生まれの堂本暁子。清泉女学院高等学校から東京女子大へ進み、海外ニュース配信会社で働いていた。入社するとディレクターとして教育、福祉、ODA関連を扱い、ドキュメンタリー「ベビーホテル・キャンペーン」で日本新聞協会賞、放送文化基金賞、民間放送連盟賞を受賞、退社後に参議院議員を経て女性初の千葉県知事に就任している。そして下田文子。彼女は自民党機関紙「自由」の編集をしていた。TBSでは広報に配属されたが、ドラマ演出志望を貫き、大山勝美と共に柴門ふみ原作「女ともだち」(86年)を演出、「恋人関係」(88年)「こんな男と暮らしてみたい」(89年)などを手がけた。 「堂本さんや下田さんとは違って、職業経験がなかったのが大原れいこさんでした。ただ、イギリス仕込みのクイーンズイングリッシュは見事だった。学習院大学を出てから英国留学していたから。当時私費留学なんて、それはもう滅多にないことでした」  イギリスといえば、大原れいこが1歳か2歳のとき、両親は彼女を日本に残してイギリスを起点に欧米に遊学している。 「うんと小さいときは、おばあちゃま(寿恵子)に面倒みてもらったのよと大原さんがよく言っていました。見聞を深めるために海外へ、良家にはそういうしきたりがあったんですね」  手元にある大原の父・総一郎の年譜には以下のようにある(「大原總一郎 へこたれない理想主義者 井上太郎著 中公文庫」)。  一九三五年(昭和十年)  七月二十七日 長女麗子誕生  一九三六年(昭和十一年)  四月十一日、夫人と海外出張に出発。英国に一年五ヵ月、ドイツに五ヵ月、米国に三ヵ月、その他に四ヵ月。その間、吉田茂、加納久朗、堀江薫雄、古垣鉄郎等を知る。大原孫三郎の寄付により日本民芸館(館長 柳宗悦)、東京駒場に設立。  一九三七年(昭和十二年)  渡欧中、ウィーン、ザルツブルク、ベルリン、バイロイト、ドレスデン、パリ、ローマ、ミラノなどを訪ね、音楽に親しむ。十二月、住居をロンドンよりベルリンに移す。  一九三八年(昭和十二年)  九月、欧州からの帰途アメリカに渡り、十二月一日、帰国。十二月二十日、倉敷絹織の常務取締役に就任。帰国祝賀会で棟方志功を知る。

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